081012 西田豊作の手記



 阿城六年、シベリヤ四年
  私の従軍記。 西田豊作(軍医大尉)

 昭和十四年三月、医専を卒業して五月に医師免許、徴兵検査で第一乙、短期現役軍医を志願して採用され、同年十月十六日、大阪歩兵第八連隊軍医候補生教育隊に入隊、二ヵ月間の速成教育で同年十二月十六日付で軍医少尉に任ぜられ、満州、阿城重砲連隊附を命ぜられた。同期約五十名くらいであったが、大部分の者が共に下関港から満州,中国大陸の夫々の任地に向かって出発したのであった。私は釜山に上陸、朝鮮半島を北上、更に満鉄で十二月二十七日夜ハルピンに着き一泊して翌朝阿城に向かった。その日は曇って小雪が降り、凍土上には七糎位の雪がつもり、内地の雪と異なりサクッサクッと乾いた音が靴底に感じられた。医務室に着き、岩崎軍医大尉、小野中尉、衛生下士官兵の皆さんにご挨拶を行い、連隊本部に行き連隊副官岡本大尉にご挨拶、そのお手配で連隊長今利大佐に着任の申告を行ったと記憶する。駐屯地各部隊の医官は阿城陸軍病院の宿直を兼務した。数日で年が明け、昭和十五年、この年は、皇紀二千六百年に当り、全国的に祝賀と戦意高揚のムードに包まれた。私も二十五才になって何か節目のような新鮮な気分もあって、中国大陸では戦火酣ではあったが、ノモンハン事変の処理も終了に近く、雄大な北満の自然と四季の感触は実感として平穏無事であった。

部隊長が稲田正純大佐に代はられ、垣内、飛松、砂野、佐久間、末松の各大隊長、又中隊長としては友田、椎名、松岡、松本、保田、植草、笹川、堤橋、蜂須賀等々歴戦のサムライが多く、陸士出身の堀、根本、小出氏等は勿論、後に中隊長として活躍される名越、井上、前田氏等その他各隊に颯爽たる士官は多かった。阿城重砲以来の准士官、下士官、兵の懐かしい顔があの兵舎営庭、演習場と共に強く思い出される。



東久邇宮盛厚王殿下が中隊長として在任され、又近衛文麿公の御曹司文隆氏が初年兵として入営、南京虫に刺されて体中ひっかき傷だらけになったのも、東寧重砲が編成されて移駐して行ったのもこの年である。春から初夏、そして短い夏、阿什河のほとりは郭公が鳴き、若草の柔かい緑に覆われ、広々とした麦畑の広野は実に快く爽やかであった。駐屯地各部隊医官の会食が例の白系ロシア人系製糖会社のクラブで行はれる事があって、ロシア料理の異国情緒も思い出である。
昭和十五年夏、関東軍各部隊に配属された新任短現軍医の集合教育が約一ヶ月間、新京陸軍病院で実施され之に参加した。
新京は関東軍司令部と各政庁が中央大街に沿って整然と立並び、児玉公園を囲む一帯美しい近代都市であった。この期間に我々は例の七三一部隊(石井部隊)の外容を見学に行ったのであるが、之が後にコムソモリスクの収容所で入院患者の退院帰隊の便で病院勤務の某軍医から「石井部隊に行った事がある、ということはソ連側の取り調べの時言ってはいけない。」という小さな紙片のメモが来た。石井部隊の特殊任務や軍事裁判のニュース等から後に成程と分かった。
昭和十六年一月、初年兵を迎えるために大連に出張した。大連は阿城に比べとても暖かく、防寒服の私は汗ばむ程であった。夜は深い霧と雪であった。昭和十六年六月二十二日独ソ戦開始、同じ時期に関特演は発令された。阿城重砲兵連隊は内地からの補充兵と満州各地からの現地徴収兵を迎えて二個連隊(重砲兵第二連隊[満州第一-二一四部隊] 第三連隊[一-二一五部隊] 独立重砲兵第四大隊[一-二一八部隊] 独立重砲兵第五大隊[一-二一九部隊] 牽引車中隊 三個中隊に編成され東部国境防衛の第三、第四、第五軍に夫々配属され、我が第一-二一九部隊は第五軍に属し赤鹿師団と協力する重砲部隊として鏡泊湖右岸に布陣して臨戦態勢に入り、私は関特演以後の四年間の阿城生活と鏡泊湖からコムソモリスク収容所の2年間、苦楽と



生死を共にする事となった独立重砲兵第五大隊(満州第一-二一九部隊)附となった次第である。昭和二十年六月二日早朝、妻と二児に見送られて吾が宿舎を出発、部隊と共に鏡泊湖陣地に出動した。

岸本大尉がムーリンの独立重砲兵第一中隊長として転出、大崎義章少佐が隊長として着任された。六月の雨季から爽やかな夏にかけて陣地構築は着々と進んだが八月六日深夜、同じ幕舎に寝起きしていた田口少尉と私はききなれない金属音のプロペラ機音に目がさめ、ソ連軍の東部国境侵入を予知した。この日ソ連軍は虎頭、東寧の国境を突破して侵入して来たのである。
数日後、敦化、吉林、新京方面に向かって日本人居留民や開拓団等の難民の列が終日続き、そしてその道をソ連軍装甲車、戦車部隊が轟音をひびかせ乍ら南下してゆくのが遠望された。そして八月十五日終戦。将兵共に虚脱状態で数日はすぎた。上野副官と主計少尉、下士官兵約十名の者が終戦数日前、戦況と情報を得るために陣地を出て東京城に向かったときソ連軍の最前線部隊と闇夜で遭遇し突然集中砲火を浴びて戦死したので、副官主計の代わりか通訳のつもりか大崎隊長と二人で南湖頭、学園屯のソ連軍前線司令部に行き指示をうけて、北湖頭から東京城掖河収容所をへて、綏芬河を越えてソ連領に入り、九月二十日、コムソモリスク第十八収容所第六分所に入ったのであった。ここで作業大隊として煉瓦工場、森林伐採、道路工事、建築作業等、零下三十度の極寒と強制労働と空腹の捕虜生活が始まったのである。

我々の部隊は本格的な戦闘もなく、整然と移動し、隊長以下結束して助け合い犠牲者は少なかった。所がソ連側の要請により大崎隊長と私が一ヶ月連れて行かれた第三分所は悲惨であった。

東部国境方面の戦闘でつかれ果てた兵士たちの寄せ集めで編成された作業大隊であるため衰弱者が多く、暖房、食料、寝具共に乏しく、藁の寝床に毛布にくるまって寿司詰めの二段ベッドには病人が力なく



横たはり、毎日死亡者が続出、薬品も看護者も少なく、作業隊の出て行った営庭には、はだかにされた屍体がうず高く積み重ねられる毎日であった。それは悪夢か、地獄のような日々であった。

異郷の地、凍てつくシベリアの収容所で無念の死を遂げた兵士達、その両親、妻子、同胞の悲しみと、その後の苦難の生涯を思えば、両国政府はもっと早くその消息だけでも通じ合う誠意と方法が無かったものか憤りはやるかたない。
昭和二十二年夏、約百名くらいの人達と共に私はコムソモリスクから第十九地区、ライチハに移された。そこは満州東北部に接する炭鉱と穀倉地帯の要衝地、私はキウダ農場分所やライチハ病院で二年間働き、昭和二十四年夏、帰国列車(?)でナホトカに着いた。ナホトカ港には数日おきに復員船が来て数百人ずつを乗せては舞鶴に向かって行った。ここでも私は二ヶ月間診療と救護の日々が続いた。或る日、私の上司であるソ連軍医は、ドクトル西田は日本兵が全部帰国するまでここで働いてもらう、と言った。之に対して私は、満州に残したままの妻子と故郷の母や祖母の消息を一日も早くさがさねばならない。早く帰りたいと訴えた所、彼は司令部に行って相談して来ると言って出て行った。

翌朝彼が来て、ニシイーダ、君は帰っていい事になったよ、と言ったときの嬉しかった事は今も忘れない。昭和二十四年十月三十日、ナホトカ港で信濃丸に乗船、十一月一日舞鶴港に上陸、十一月六日鹿児島市に復員したのであった。
今日十二月八日、太平洋戦開戦五十周年のその日であるが、昭和六年の満州事変、昭和十二年の日支事変から第二次世界大戦までの長い戦争の歳月、又終戦後の筆舌に尽くし難い苦難を経て、今や経済大国と言われる日本であるが、之は働くことが大好き、自分のことより家族の仕合せのために、又地域社会、更には国のために役立ちたいと言う勤勉な国民性で平等且高い教育制度、それにバランスの良い政治感覚



などがこの繁栄をもたらしたのではないだろうか。

私は青年時代の十年間、軍隊で規律、礼儀、国家同胞への献身という人生観を会得し、又生死を共にする大集団に加わり、而も敗戦と言う現実の中、異国異民族の屈辱的捕虜収容所の中、幾十万将兵の肉体的精神的苦闘の日々、何より多くの犠牲者があった事によって従軍で得た体験を糧として人生を全うしたい。
 今は亡き上官先輩戦友の霊に合掌。
 ご健在の皆様には心からのお礼と堅い握手を送ります。
                   (満州第一-二一九部隊史原稿)

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2008年10月12日作成 home pageへ